片々

とるに足りないが見逃せもしない。

喉に何かがひっかかる。

適応障害と診断されて仕事を辞めてから三週間ほどたった。やりたいことはいっぱいあるのに能力がない。最近やっと能力を伸ばそうと、運動したり勉強したりを始めたけれど、それと同時に早く働かなければという気持ちも強くなった。親からの言葉も、心配していたものからだんだんと急かすものに聞こえるようになって。行き詰ってる。色々と手続きがあるのでまだこれからだとわかっているけれど、立ち止まりたくて仕方がない。


最近咳がでるんだけど、もうかなり続いているから風邪とも思えない。昔からテストの時なんか、周りが静かな時に限って同じような咳がでていたのを覚えている。喉の奥に、何かがひっかかったような感じ。たとえばナッツの欠片みたいな、小さな何かが気になって、我慢するとすごく苦しいやつ。どうやら経験者は結構いるみたい。

こんなに続いたのは初めてで、ちょっと怖くなって調べたらそういうのをヒステリー球というそうだ。ストレスや葛藤によって生じるようで。またストレスかと笑ってしまった。

さすがストレス社会。ストレスから逃げた先にまたストレスとは。ああ仕事したくない。怖い、けど。まだ死ねないから働かなくちゃ。可愛かったら人生変わってたかな。

もっと優しいと思ってた。

他人の人生を覗いて見ることは出来ないから、私以外の人間がどんな人生を歩んでるのかなんて知らない。だから多分これはみんな思ってることなんだろうけど、自分の人生って、まるで謀ったように不幸なことばかりなんだ。まだまだ短い人生の中で、色んなことが起こって目が眩んでしまいそう。その一つとして、いじめについてちょっと前に思ったことを書いておこうと思う。


明確にいじめってものを意識したのは中学2年の時。いじめられ始めたのが丁度学年が変わってからくらいだった。それまでは本当に楽しい学校生活だった。なんて言ったって、1年の時は私自身が友達をいじめていたのだから。

自分が何でその子をいじめていたのかって、理由は多分たくさんあった。中学になって仲良くなったばかりの友達(いじめていた子とは別)との共通の話題としてとか、何でも私のまねをしてくるその子が単に気に入らなかったからとか、たまたま好きな子が一緒だったからとか。今になって言い訳をするつもりはない。いじめてるっていう意識が少しもなかったと言うと嘘になるし、私はその子をいじめることが楽しかったのだから。

そんな私をいじめたのは、男の子たち。その時期になってくると人の容姿とかが気になって、綺麗な顔立ちの生徒はちやほやされるし、逆にさえないと除け者にされたりするものだ。理由の半分はそれ、もう半分は機会があったらまた今度。


前置きが随分長くなったけど、今回書きたいと思ったのはいじめっ子の心理についてだ。そのためにまず、人をいじめる理由とは何かを考える。

いじめっ子としての経験といじめられっ子としての考えを合わせた私の答えとしては、


①誰かをいじめることで人に認められるため(仲間意識だったり、笑いのネタとして人気者になったり)

②その人が気に入らない(うざいとかきもいとか、相手に対して競争意識があったりとか)

③いじめるのが楽しい(他人を自分より下位の存在として見ることによって、優越感を得る)


簡単に言うとこんな感じ。多分ほとんどの場合は一つじゃなくていくつかの理由が絡まっているのだと思う。①だけの場合、理由として明確だし、いじめてる側が自己嫌悪してることが多いみたい。私をいじめてた男の子の一人がそうだったみたいで、保健室の先生に相談に行っていたと後になってその先生から聞いたんだけど。

②の場合、いじめへの明確な理由にはなってない。単にうざいとかきもいとか、その感情といじめという行為をイコールには出来ないはずだ。

次に③の場合。多分これが一番やっかいだ。人間なら誰もが持ってる感情だろうし、人によっては抑えが効かなかったりするから。


ここからさらに考えたいのは、じゃあいじめを止めるためにはどうしたらいいのか?っていうことについて。私は、いじめは減らすことは出来ても失くすことは出来ないと思ってる人間なので、今回は減らすことを目的として考えてみる。

理由が①や②の場合、本人が気付けば簡単な話だ。テレビだったり本だったりでよく目にする「相手の立場にたって考える」ってやつ。有名なCMがあるけど、それって③には効かないよな?


考える、想像する。

いじめられたらどんな気持ちか?

悪口を言われる。暴力を振るわれる。笑われる。何をやっても馬鹿にされる。

ああ、悲しいな。苦しいよな。

でも、だからなんだっていうんだよ。


いじめてるのは自分で、いじめられてるのは他人で。多分それだけなんだ。そういう人もいるんだ。そういう考えもあるんだって、気付いた。

今も誰かがどこかで死んでいて、どこかで泣いていて、途方もなくて何も出来やしないけど、何かをしようともしてないけど、そういう偽善って呼ばれる善くらいはみんなあるものだと思ってた。でも考えてみると違うんだなって。それで、そういう感情が自分の中にもあるんだなって。


偽善より善のほうがいい。だけど偽善でも、ないよりましだ。

でも善も偽善もなかったら、多分楽しいんだろうな。

結局何が言いたいのかって、いじめっ子の中には、いじめられる気持ちがわからないからいじめてる奴ばかりじゃないんだよなってこと。わかってても、経験しててもいじめるのって、もう、止められないなって。そういう話。

そもそも自分がいじめてることにすら気付いてない、そんなことにすら目を向けてないって人もたくさんいるんだろうけど。笑っちゃうな、本当に。


だから題名。

悲しいんだ。自分も含めてさ。人間って、もっと優しいものじゃなかったっけ?

ひとりぼっちなんだ。

テレビで学生の自殺が報じられる度、涙を流してきた。

気持ちは痛いくらいにわかる。わかっているつもりだった。

死ぬくらいなら、死んで終わりにしてしまうのなら、どうにかして逃げて欲しかった。

誰でもいい。何でもいい。誰かに助けを求めて欲しかった。相談センターとか親とか先生とかカウンセラーとか。誰でもいいから、と考えていた。


だけど、ようやくあの子たちの気持ちがわかった気がするんだ。

確かに相談しようと思えば、相手はいくらでもいるのかもしれない。だけど、やっぱりいないのだ。どうしようもなく私たちはひとりぼっちで。

あの人はどうだろう、あの子はどうだろうと顔が浮かぶのに。実際に相談なんて出来やしない。泣きつくことなんて出来ないのだ。

ひとり。ひとりで考える。

相談したらどうなる?解放されたらどうなる?

楽になるだろうか。わからない。もうその先を考えることすら、嫌だ。

つらいんじゃない、苦しいんじゃない。きっとそれはここに至るための過程で。

もう、よくわからないのだろう。ただ、死にたい。消えたい。

それだけ。


私は、誰かに相談することなんて出来ない。本当の私は、私の中で殺し続ける。

だけどもし私のように助けを求めている人がいるのなら、私はその人に寄り添いたいと、そうして自分も救われたいと、そう思ってしまうのだ。